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# vol.11

夜は暗いものなのだ。と言ってしまった手前、部屋の中を明るくすることができないでいる。京都に引っ越してきて2年が経とうとしているなか、我が家は暗いままだ。ワンルームの部屋にはPCから電源をとってささやかにぼんやりと光るデスクライトが一個あるだけだ。

室内灯がそれしかないので、仕事を終えて帰宅しても部屋は暗いままだ。なんて寂しい生活なの…と実情をよく理解していない友人たちは雨に濡れる子犬を見るような目で言ってくれる。心配してくれているのはわかるが、残念ながらこれは実情を知らぬがゆえの過剰な心配というやつである。暮らしにさほど問題はない。

むしろ、内と外を分かつ儀式が「玄関なる場所で靴を脱ぐ」ということに限定された結果、内と外の境目は通常よりも幾分あいまいなものとなっている。かつて郷ひろみが「オンとオフを切り替えるのが無駄なので、常時オンにすることにしたんです」といったことを言ってスーツをひらりとさせていたのを思い出す。境目を作らなければ、変身の手間を減らすことができる。そのひとつの手段として、「母屋の電灯をなくす」というのがある。

郷ひろみほどストイックになる必要はいまのところ感じていないが、一方で、常々変身の手間がかかりすぎていることは気にかかっていた。玄関に辿り着いたら靴を脱がなくてはいけない。それだけでなく、歩みを進めて母屋の電灯をつけ、やかんに水を入れて火をかけ、コートを脱いでハンガーにかけて洋服ラックへ。そしてわざわざ部屋着に着替える。冬場、風邪が気になるこの季節は、すぐにうがいすることも必要だ。うがい薬はどこだ。おや、顔がパサパサじゃないか。保湿剤も塗らねば。一事が万事こんな調子で、いつになったら安らげるのか見当がつかない。

こうした諸々のことが僕の安らぎを阻害しているのなら、ひとつひとつ不便のないかたちで取り除いていけばいい。この結論に至るまでにそう時間はかからない。では、電灯をなくそう。そもそも夜は暗いものなのだ。

暗いと、自分の姿も見えない。自分の姿が見えないので、どんな適当な格好をしても自分自身のダサさを責めるような事態は発生しない。なんて素晴らしいんだ。明るさは自分の目と背面以外のあらゆる場所を見えるようにしてしまう。しかし、暗ければそのいずれもわからなくなる。見えないことによる自由というものもある。裸でもいい。せり出してきた腹が視界に入ってくることもないのだから。

一方で、こうした生活をしていると、「自然派」だとか「ロハス」だとか、そういう人だと解釈されてしまうことがある。これがいっとう面倒なことだ。ちょっとしたことから価値観や思想を人は過剰に読み込もうとする。というか、そういう推論をしながら日々他者とやり取りをするのがいわゆる「社会生活」というものなのだろう。

「暗いね…電気つけないの?」

「つけないというか、ないんですよ」

「え?」

「取っ払ってます」

「電気つかわないとかそういう思想なの?」

「いや、合理化です。これ以外は電気バンバン使ってますよ」

「??」

こんな具合である。我が家に来た人とのもはやテンプレ化した会話である。生活の合理化。これはなかなか理解されないものだ。灯りがほしければ、パソコンでも起動させればいい。あの程度の輝度で日常生活に不便がないほどの光が得られる。もっとも、パソコンの電源を入れるときは、ただ単に灯りがほしいわけではなく、別の目的があるときだけでいつも灯りを提供してくれているわけではない。

こうして真っ暗闇のなか夜を過ごす。朝も遮光カーテンを閉めっぱなしなので同様に暗い。太陽の光を感じるのは、玄関先で靴を履いて外に出るとき、それだけだ。靴を履くこと、それが、僕が光と出会うときの儀式なわけだ。帰宅時の合理化を進めたことにより、僕の生活のなかで靴を履くことの儀礼性が高まっている。これが果たしてよいことかどうかわからないが、これが現在の生活のなかの靴の位置付けだ。

| comments(0) | - | 01:10 | category: エッセイ:秋谷直矩, 京都 |
# vol.10 屋上と指さしのはなし

年末年始の帰省で千葉にいる。特段やることもないので、ふらふらと街を歩く。栄町商店街はどこも寂れている。駅前開発が進んだ結果、栄町商店街は駅のすぐ近くでありながら、非常にアクセスの悪い場所になってしまった。結果、商店街の多くの店は空き店舗になった。そこにニューカマーの韓国料理店が多く入っている。それ以外にも、中国料理やブラジル料理などの店が散見される。ここ最近はご当地食材専門スーパーなどが入るようになり、なんとなくこの路線でまた栄町も盛り上がるかな、と少し期待したりもする。年末だから少し豪勢にいくか、と焼肉店に入る。うまいキムチを付け出しで出す店は大事にしたい。

栄町は風俗街でもある。特殊温泉浴場が何店舗もある。現在の風営法によって建て替えができないので、道路に面している表側はきれいにしていても、建物の裏側にまわるとボロボロ具合は激しく、いかんともしがたい。僕が死ぬ頃には、老朽化によって建物が崩壊するかもしれず、「建物がもたないから」という理由で特殊温泉浴場は消滅するんだろうな、などと考えたりもする。

建物の裏側に回る。下から上をざっと見てボロボロ具合を確認する。今年もまだボロボロだな、とひとりごちて表に回る。客引きのおじいさんが「お遊びどうですか」と声をかけてくる。店の入り口に目を転じて「いいです」と言う。裏側と違い、表側はずいぶんと綺麗に「上塗り」している。見かけ上のきらびやかさを過剰に感じるのは、先に裏側を見たからだろう。地面に影が走ったのが周辺視野に入る。やはり足元には猫がいる。この店で飼っている猫のようだ。視線を足元に落として猫と目があった瞬間、遠くに逃げられてしまう。また特に目的もなく歩き出す。ひっかけ橋でも見ていくか。

数歩歩いたところで、ふと見落としていたものに気づく。たしかに建物の裏側も表側も見た。でも表側は入り口部分、つまり1階部分しか見ていない。2階以上あったはずだ。急いで引き返す。2階部分を見る。「やっぱりうちにしますか」と言ってくる客引きのおじいさんへの対応に少し困る。大事なのは2階以上なんだ。あれっと思う。2階以上も、少なくとも表側は綺麗に上塗りされている。おかしいな、と思い、栄町商店街に戻る。各店舗の1階部分と2階部分を見比べる。1階部分の気合の入れよう(といっても、寂れているのでその程度はアレだが)と、2階部分のそっけなさ。2階部分だけみたら、どの店も何屋だかわからない。そもそも何かを商っているところだとすらわからない。街歩き中の視覚は、たしかに全景を捉える。しかし、2階部分は見えていても、見ていない。だから、2階部分はぞんざいでもよい。そもそも2階部分は事務所だから、客が入ることは想定されていない。だから、1階部分だけが「店」とわかるようにしていればよい。しかし、そうでない店もあることは先ほど見たばかりだ。

こんなことが気になるのは、人びとが「境界」をどこに引くかに関心があるからだ。区別するためには、境界を引かねばならない。なんでもそうだ。ここまでは友人で、ここからが知人。ここまでが自分の作業領域で、ここからはあなたの。ここまでがA国の領土で、ここからがB国の。境界を引くためには、それをするための方法と、維持するやり方がある。もちろん、それがいつもうまくいくわけではない。そこにはしばしばせめぎあいがある。明確に線を引くことが難しいから、わざとあいまいにされていることもある。その「あいまいさ」にもも、もちろん、あいまいにするやり方がある。どれも興味深いことだ。

建物の境界――土地権利とかそういうものではなく、「どこまでを客に見せるか」みたいな――は、その店をいかなるものとして理解すべきかということとかかわっている。栄町商店街の店は、1階と2階の間にそれがある。特殊温泉浴場は表側と裏側にある。

こうなると、全部見たくなる。直感的には、どの建物も屋上部分は気を抜いているはずだ。多くの建物は上から見られることなど想定していないだろう。とすれば、その無個性な感じも見なくては。建物の側面と頭頂部を見ずして、建物を見たことにはならない。

というわけで、千葉ポートタワーまで移動する。20年ぶりくらいに来たポートタワーは、「恋人の聖地プロジェクト」によって「聖地」に認定されたとかなんとかでデコデコされている。うさんくささが増すことについては大歓迎だ。どんどん怪しくなってほしい。

約125米の展望台から千葉を見下ろす。多くは点でしかない。望遠鏡をのぞいてようやく点がなんであるかがわかる。地上の人びとからこちらが覗かれているかんじはしない。こっちが一方的に「覗いている」。これはなかなかいやらしいかんじだ。

屋上はどれも無個性だ。もはや屋上だけを見て、あれがA店と同定することはできない。それでもA点と同定することが可能なのは、各建物の配置がなんとなく頭に入っているからだろう。満足して、ふつうに景色を見ることにする。すると、面白いことに気づく。「あれは千葉港」「あれは京浜の工業地帯」その場にいたならおおよそ指し示すことができない「全体」を、指差して当該範囲をぐるりとなぞることで指示できてしまう。遠くにある集合体と私の視覚を取り結ぶ道具として指差しは機能する。横にいる人は、私が見ているものが何かがそれによってわかる。言葉と指差しによって、それは私だけの視覚経験ではなくなる。

なるほどこれは面白い。指差しがなければ、このような遠景の景色を前にしたとき、ある集合をひとまとまりのものとして他者に提示することはなかなかむずかしそうだ。指さしに関しては、高村光太郎の有名な詩の「樹下の二人」を思い出す。「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」この有名な書き出しで始まる詩だ。「あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう」という一節まで読んだところで、「二人は手を恋人つなぎしているのだろう」と思う。すると、お互いの片手は自由だ。とすれば、指さしはできる。

「あれが阿多多羅山」であなたを指し、「あの光るのが阿武隈川」でこなたを指す。二人の指向が重なり、同じものを見ることが可能になる。このとき二人はどこにいるのか。智恵子の生家のある二本松のどこかだろう。ちゃんと調べていないのでわからないが、おそらく智恵子の杜公園があるところではないか。そこの一角に二人座っている。

ところが、指さし仮説は若干危うさがある。というのも、智恵子の杜公園から見た場合、阿多多羅山(現安達太良山)と阿武隈川は正反対の場所にあるからだ。智恵子の杜公園を起点に、東側に阿多多羅山。西側に阿武隈川がある。とすれば、指さしなどなくてもよい、首振りで十分だ。もっとも、四方を山に囲まれた場所なので、他の山と区別するために、阿多多羅山にかんしては指さしをしている可能性がある。これは、阿多多羅山を指す際にには「あれ」しか言っていないのに対して、阿武隈川には「あの光るのか」と付け加えていることからもなんとなく類推できる。阿多多羅山は、指さししてその場所を示しているので、むしろそれ以外の特徴を言わずとも、その場所を共有できる。阿武隈川は、周囲に他に川がないということもあり、指ささなくても「川」とさえ言えばそれと「阿武隈川」を一致して理解することができる。「光る」という、視覚的にかなり刺激を伴って経験されるものをピックアップしておけば、その指示性は高まる。やはりこちらは指さすまでもない。

智恵子抄については、映画やドラマ、劇などがいくつも作られている。この場面の身体動作をそれぞれがどのように読み取り、表現したのか。とても見たいのだが、いずれも未見である。今度この点について見比べる上映会をしたいものだ。

こんなことを思いつつ、再びポートタワーから眼下の景色を見る。屋上の無個性感。見られることを想定していないということ。翻って、見られることを想定しているということは何なのか。こんなことをしみじみ考えていると、ふと気づくことがある。古くは浅草十二階、現在でいえば東京タワーや東京スカイツリー、その他展望台。あるいは、飛行機から見た景色や、航空写真、衛星写真。などなど、「上から見る」ことはすでにメジャーだ。そうである一方で、いまだ屋上を「見られているもの」と位置づけて、そのようにデザインしている建物はそう多くない。もちろん、見る頻度の問題や、費用対効果の問題もあるだろうが、これはこれでなかなか不思議ではある。

なんとなく思うのは、展望台については、それぞれが「高すぎて」、個々の屋上を見るような動機を持ちにくいのではないか、ということだ。展望台に登って指差すのは、目立つ建物や、「集合」だ。屋上ではない。展望台は、屋上を見るために設計されていない。あくまでもパノラマである。PAN(すべて)+HORAMA(見える)。局所を見るために展望台があるわけではない。全体を見ること、ここに特化されている。

据え置かれている望遠鏡は、もっと細かいものを見ることを求める道具だ。覗き見の快楽。見られていると思っていない人や、普段見ることができない部屋の中を覗く。屋上はその範疇だろうか?そうではないだろう。好き好んで屋上を望遠鏡で人は見るだろうか?そこで仕事をさぼっている人を見たい人はいるかもしれない。しかし、「さぼっている」のを見たいのであって、屋上を見たいわけではないだろう。

屋上を見る欲望が喚起されるのは、5階建ての少し高い建物に登ったとき。そんなときだ。屋上を見るべき高さ、というものがどうもありそうだ。その点では、屋上を見るために展望台に来てしまった僕は、選択を間違えたのかもしれない。ある場所を見るための「高さ」の適切さの問題。そんなものもあるのだ。しかし、どの建物も、わざわざ他の建物の屋上を見るために設計されているわけではない。むしろそれは、設計者の意図を超えた使用法である。何やらいやらしさもつきまとう。規範的なことではない感覚もある。「屋上を見る」ということそれ自体がルール違反のような感覚がある。やはり「覗き」だ。覗きという単語の使用が適切に思える時点で、そこにはルール違反が含意されている。

僕が展望台に来たのは、その「違反行為」を周囲にさとられないように、あくまでも「全体を見る」という体を装う必要があったという言い方もできそうだ。「屋上」は、「すべて見る」ことと、「個別の店を、他でもなくその店として見ること」の境界にある、「あいまいなもの」だ。あいまいであるからこそ、店の人は、決して店頭ではできないこと――洗濯物干しや、喫煙など――をする場として屋上を使うのだろう。そして、それを覗き見る者に対して、なにかしらのうしろめたさとそこから生じる快楽めいたものを感じさせる。これだけいろいろな場所・方法で視覚経験を積むことができる昨今、それでもなお屋上はあいまいなものであり続けている。ことさら「見る対象」になることはなく、「見られる側がそれを意識してデザインするもの」でもない。その曖昧さが、僕を惹きつけている。これだから街歩きは楽しいのだ。

| comments(0) | - | 01:09 | category: エッセイ:秋谷直矩, 京都 |
# vol.9

「君らが松田聖子を見ていたのと同じ目で、あの子たちはアムロちゃんを見ているんだよ」

大変正しい、しかしにわかには受け入れ難い発言をふと雑踏より拾ってしまい、心身ともに大イメージを受けたのでエッセイ書くのがまたもや遅れてしまいました。なんでも正しいことを言えばいいというものではないということを人類が学ぶ日はいつになるのでしょうか。

さて。最近めっきり腹が出てきたわけですが、みなさんお腹出してますか。来るべき不惑に備えて腹を出す準備はできているでしょうか。進捗どうですか?

こう、年を経るごとにじわじわとせり出してくる腹に多少の焦りを覚えることもあったけれども、ここ最近はこんななだらかな丘陵ではいかんのではないかと思うぐらいになりました。僕はもっと前へ、前へ進まなければいけない。でもときに怯えて僕の足がその一歩を踏み出せないならせめてこの腹だけでも前に出せないものか。

腹が出れば、土俵入り気分で腹をパンパン叩けるし、直立したまま腹に何かをのせるってことが容易になります。とある人が「ベーシストはいい腹してる」と言いましたが、たしかにイエスのクリス・スクワイアしかり、エイジアのジョン・ウェットンしかり。みな腹にベースをのせているからあんな安定したいいプレイができるのでしょう。

そんな腹出者に見惚れた人はみなこう言います。「恰幅がいいね」。こんなことを言われたら、それこそご大尽な気分になって「ほうら明るくなったろう?」とか言いながら二千円札を燃やしかねませんが、その行為は成金イメージが大正時代より強くついてしまっているのであまりやらないほうがよろしいかと思います。

こんなかんじで腹が出ることを礼賛してきましたが、他方で昨今のスタイルは「スレンダー」がよいとされておりますゆえ、やはり抵抗あるという方もいらっしゃるであろうことは理解しております。嗚呼ダイエット。必死の体型維持。しかし、人はあなたのお腹はそんなに関心をもっていません。見ていません。安心してください。ただし、いつも視界に入らないというわけではありませんので、そこには注意が必要です。いま、「視界に入る」と気軽に言いました。ちょっと腹の話からは離れますが、「街の構造」と「視る」という行為には非常に面白い関係があると常々思っていて、それに注目しながら街歩きをすると楽しいのではないかとも思ったりしています。以下このことについて適当に書いてみます。

街の構造を例に、この視覚の問題、すなわち私たちが普段「何をどれくらいの範囲で見ているのか」という点を考えてみたいと思います。ひとつ例を出してみましょう。街を歩いているとき、私たちは端的にある場所が「店」であると指摘することができます。たとえば出入り口があり、ショーウィンドウがあり、看板が入り口上部にある。私たちはそれぞれのオブジェクトをバラバラに見ずに、ひとつのまとまったもの、つまり、「店」としてみようとするということをここでやっています。

ここで注目したいのは、いま私は「出入口」「ショーウィンドウ」「看板」というタームを用いて、特定のオブジェクトを記述したということです。これらは例えば「穴」「壁」「板切れ」と記述することも可能なはずです。しかし、「店」というものを理解可能にし、それぞれ関連したものして見るためには、やはりそれぞれのオブジェクトに対しては「出入口」「ショーウィンドウ」「看板」と記述しなくてはいけません。ここに、ある特定の場所を「店」として理解するということと、その構成物の記述の重要な関係があります。

こうしたことを「街歩き」の経験に差し戻してみましょう。私たちの視野はかなり広いです。しかしその範囲内にあるものすべてを等分に見ているというわけではなく、集中して見ているものとそうでないものは分けられているということがあると思います。先ほどの店の例を思い返しましょう。店がある場所と自分が立っている場所との距離が短いと、だいたい1階部分しか見えません。逆に遠くから見えれば、建物全体を見ることができます。

この点が非常に重要だと私は考えています。つまり、遠くから見られる可能性があるものは、建物のどの部分を見て特定のものとして理解できるようにデザインされていることが多いと思います。窓も、壁も、出入口も、ぜんぶその「店」のものとして一瞥して理解できるような。他方、狭い路地にあるような店は、たとえ2階・3階部分もひとつの店だとしても、1階部分以外はけっこう適当で、1階部分と2階部分が同じ店のものとわからないようなケースもあるのではないでしょうか。そこまで極端でなくとも、2階以上のデザインにそれほど気が回っていないということはよく見ます。入ってから初めて「あっ、ここ2階もあったんだ」と気づくことすらあります。それは端的に、狭い路地から2階・3階部分を見る客はいないし、そもそもそこは見にくいので、皆が見える1階部分をきっちりしておけばよいということがあるのではないでしょうか。

実際の店舗デザインにどのような意図がそこにあるのかは調査したことがないのでわかりませんが、狭いところにある店のほとんどが1階部分のみ統一性をもたせ、出入口やショーウィンドウ、看板などをひとまとまりのものとして視る/記述することができるようにしているというのは多くに当てはまることだと思います。そして、日本の都市部の多くは道がごちゃごちゃしていて、狭いことも多い。ゆえに、2階以上にそんなに気が回っていない建物が多い。ここが面白いところです。

普段街歩きをしているとき、以上の理由もあって、私たちは2階以上をまじまじと見るということはあまりしていないのではないでしょうか。そこに隙があります。そこであらためて2階以上に注目しながら街を歩いていると、ほんとうにいろいろな「いいかげんなもの」があり、飽きさせません。これは一例ですが、赤羽の商店街は店舗の入れ替わりが激しいのでしょうか、1階部分はきれいになっているのに、2階部分になると途端にいい加減なお店が多く、私を楽しませてくれます。載っけた画像はその一例です。
 



画像ではわかりくいかもしれませんが、2階部分に「化粧品のにしのや」という看板があります。じつはこのお店はもうありません。このお店が入っていた建物の1階・2階にはとある飲み屋さんが入っています。1階部分はきれいにリニューアルされ、過去の面影は一切ありませんが、2階にのみ、この看板がなぜか残されているというわけです。こんなかんじで、どうせ誰もみないだろうと思っているのかなんなのか、2階部分にはいろいろおかしなものが残っています。

たまにはちょっと上を向きながら街歩きをしてみてはいかがでしょうか。きっと面白い変なものがいっぱいあります。そしてそれは、ただ単に「残ってしまった」のではなく、人々が街を作っていき、そこで商売をし、生活していくということと、人間のもつ視覚の問題が関係している(可能性がある)という点で、非常に検討にするに面白いものだと私は思っています。

今回またしても締切を破ってしまったので、反省していることを表現するために丁寧語で文章を書いてみました。

| comments(0) | - | 01:06 | category: エッセイ:秋谷直矩, 京都 |
# vol.8 街角の余韻:三点リーダーの理解/利用可能性

街角の余韻を集めている。何やらブンガクなこの文言。一体これはなにかというと、そんな特殊なことではない。三点リーダー(「・・・」←コレ)が看板のなかで使われていたら、それは街角の余韻なんである。この箇所に隠れている何事かを想像せよ、と読み手に通常要求する三点リーダー。それが看板に使われていること、その特殊性に注目してもう4年ぐらい経った。

看板というのは端的に何を商っているのかということを示しつつ、かつ同業者と区別するために固有性を出すということを同時に達成することが求められる街中のオブジェクトだ。

時には図1の画像のような定石を外したものも目にすることがあるが、これが特殊に見えるということは、やはりそこには「あるべき看板の規範」のようなものがあるということになる。「印刷屋さん」を固有名として読むのは少し抵抗がある。

そうした日常生活者の熟練者としての直感を頼りに街を歩いていると、妙な看板というものはいろいろ目につくものである。そのなかで僕は看板に「三点リーダー」を使っているものに注目している。



図1 とある印刷屋さん@品川

図2 とある飲み屋さん@新橋


三点リーダーを看板内に使うということはいささかおかしな話だ。というのも、本当に言いたいことをあえて隠しているように見えるからだ(図2)。

だからなんだよ、と言いたくなってしまう。実際こんなふうに思った時点ですでに術中にはまっているのだろう。何やらモニョモニョした物言いだけど、三点リーダーで隠されている先には何やら「おいしいもの」の具体的な品名があるのだろう、あえて隠すってことは相当すごいことなんじゃないか?これだけ想像力を掻き立てるなら、よっぽどすごいのが待ってるんでしょうね!と店に足を踏み入れた時点で相手の思う壺である。

以上のように、三点リーダーはそこに何かが「隠されている」ということを示す。だから、そこには想像の余地が生まれるというわけだ。その意味では、完全に隠されているわけではない。むしろ、答えをチラ見せしている。想像の手がかりとして、三点リーダーの前に置かれる文章なり単語なりが用いられる。もし、看板の規範が「端的に商っているものと店名を伝えること」ということであれば、三点リーダーの使用は「冗長」ということになるだろう。だが、冗長であるからこそ人々は足を止め、「なんだろう?」と思いながら、それぞれの想像の産物を期待として胸にかかえて暖簾をくぐるのである。

ちなみに、三点リーダーが看板内で用いられるのは、飲み屋街や風俗街が多いという実感がある。全国津々浦々調べたわけではないが、この傾向性は注目に値するだろう。想像力を掻き立てるのが求められる業種ということと関連性があるのかもしれない。

もう少し三点リーダーの面白いところを見ていきたい。

会話であれば、本来「沈黙」となっている箇所に挿入されているということだと思う。以下簡単な事例を見てみよう。

剛田:友だちだろ!仲間だろ!!おまえのものはおれのもの、おれのものもお 

   れのもの…な!!

骨川:うん。

画像を見るとどんな場面かよくわかると思うが、直接画像を載せるのは著作権に引っかかるので載せません。

(ネットで検索すると出てくるけど…コレね→http://ccc.hippy.jp/wp-content/uploads/2011/04/20100902_1022092.jpeg

ドラえもん屈指の名台詞でも三点リーダーは効果的に使われている。剛田が「おれのものもおれのもの…な!!」と言っている箇所に注目してみよう。おそらくここの三点リーダーの箇所は本来沈黙のはずだ。誰も発声していない。沈黙ならば何も書く必要はないはずだ。しかし三点リーダーが用いられている。

僕たちはここで、三点リーダーというものの威力を思い知ることになる。三点リーダーがほかでもなくまさにこの箇所で用いられていることによって、僕たちはこの剛田の発話がなされた場面の動作が端的にわかるようになっているのである。

この会話は1コマ内でなされている。中央に剛田が立っており、読者から見て右側に野比、左側に骨川がいる。そして、剛田の首が野比と骨川の間を行き来している状態が描かれている。

おそらくこのコマを理解するために重要なことは、剛田の発話のどこまでが野比に向けられていて、どこから骨川に向けられているか、ということだ。この区分けがどこかで、このコマの理解可能性はまったく変わってしまう。

もし「仲間だろ!!」までが野比に向けられていて、その後が骨川に向けられているとしたらどうだろうか。その場合、剛田の主張は2人対して等分に向けられていることにある。つまり骨川も野比と同じ身分に置かれていることだ。つまり、この場合骨川は剛田の腰巾着ではなく、理不尽な主張を押し付けられた、いじめられる対象として理解されることになる。

では、「おれのものもおれのもの」までが野比に向けられていて、「な!!」の箇所だけ骨川に向けられているとしたらどうだろうか。この場合、骨川は理不尽を押し付けられている対象としてではなく、剛田の仲間として理解されるだろう。そして野比は、剛田と骨川のいじめの対象であると理解可能になるはずだ。この場面での骨川の顔は極めて冷静にみえることもその理解を後押しする。なので、剛田−骨川−野比の社会関係の理解可能性は上述のとおりとなる。

さて、このコマの理解可能性は、どちらが正しいのだろうか。すでに骨川が剛田の腰巾着であることはよく知られているので、それだけで後者だと思う人も多いだろうが、キャラ設定とコマの理解可能性は一旦切り離して考えたほうがよいだろう。骨川が剛田に理不尽な目に合わされることだってあるのだから。

少々前置きが長くなってしまったが、後者の解釈が正しかろうと思わせる主要因が実は「三点リーダー」なのである。三点リーダーが用いられるときは基本的に誰も発話していない、ということを先に述べた。しかし、だからといってそこで誰も何もしていないということにはならないのである。

まず、この三点リーダーは剛田の発話内で用いられている。さらに、骨川の「うん」という発話は、剛田の「な?」に対してなされたものとして見るのが自然だろう。となると、この三点リーダーは、骨川の「うん」という発話がなされる前の場の状態の何事かを描写していることとなる。では、この三点リーダーの箇所では何が起きているのか?コマ内からそれと関連があるようなものを探すなら、ひとつしかない。つまり、剛田が野比と骨川を見る「首の動き」である。

僕たちは、三点リーダーと首の動きを連動したものとして見る。つまり、この三点リーダーは、ただ単に沈黙を表しているのではない。注目すべき特定の動作がそこでなされている、ということを示しているのだ。もちろん、吹き出しが右から左に読むということが、右側に書かれたセリフは右側にいる野比に、左側に書かれたセリフは左側にいる骨川に向けられているように見える、ということも重要な要素かとは思う。

ここまで見ていったことによって、ようやくこの一コマは、「おれのものもおれのもの」までが野比に向けられていて、「な!!」の箇所だけ骨川に向けられている、というものとして読むのが正しかろう、ということになる。それによって、三者の社会関係もまた特定のものへと理解できるようになっていく。実際、僕らは端的にそのようなものとしてこのコマを理解するだろう。

もしどんな見方も許されるなら、この一コマはどのように見ることも可能である。しかし、たいていは後者で示した見方をするだろう。となれば、そのように理解できるようにこのコマは組み立てられていると見るべきなのである。コマ理解の秩序、と言ってもいいかもしれない。そのひとつに「三点リーダー」がある。

なお、ドラえもんの一コマを題材に見てきた三点リーダーの使用法は、先の看板の使用法と少し違う。前者は「動作」と「発話」の関係を理解させるツールとして、後者は「想像の余地を残す余韻として」である。このように、三点リーダーは様々なかたちで用いられる。ただ、何かの不在を示す記号でありながら、そこには何かがあるということを予期させるもの、ということではどの使用法も共通していると言えよう。もちろん、ドラえもんでの使用法が街中の看板で用いられていることもあれば、その逆もある。


図3 とあるバー@新宿


図3がまさにその「逆」の事例だろう。ここでは、アンニュイにグラスを傾ける動作が三点リーダーの箇所に埋め込まれているように見えてしまう(少なくとも僕は)。漫画ではないので、実際の動作がそこにどのようになされているかはわからない。しかし、やはりそこにはなにかの動作を読み込みたくなってしまう。三点リーダーは、こんなふうに、それが置かれた場所や前後の文言から僕らの想像力を一定の方向に導きつつも、完全にひとつの方向に強制することもない。

街の看板に三点リーダーがあふれていたら、少し立ち止まって考えなければならないのでたちどころに疲れてしまうだろう。でも、自己主張の強い看板があふれるなかで、控えめに、直接何かを言うこともなく、そっと声をかけてくる看板がたまにあるのはよいものだ。ひっそりとあるからよい。街角の余韻は、片隅に、目立たずそっとひとつかふたつあるのがよいのだ。そして、それに会いに僕は街を今日もふらふらするのである。

まあ、飲めないのでだいたいの店には入らないんだけどね。みなさんの街にそっとある余韻たち、ぜひ写真に撮って送ってください。送ってくれると僕は喜びます。

| comments(0) | - | 00:59 | category: エッセイ:秋谷直矩, 京都 |
# vol.7

 「いい足音を録音しよう」と思い立って自宅を出る。環境音を録音して、それになにかステキコードをかぶせてオサレな音楽を作ってモテようという算段だ。鴨川べりのオサレなカフェ―(語尾上がりで発音)でほんのりかかっているような、あんなのを作ろうとふと決めたのである。できるだけメロはせつなく、ジャジーで、会話の邪魔にならない――しかし、ふと夕焼けに目をやってしんみりした隙に耳にそっと忍び込んでくるような。

「マスター、この曲誰の?」

「ああ、これはね

「やっぱり教えてくれなくていいわ」

「どうして?」

「ひとつだけ確かなことがあるの。メロディーしかわからないところから自分で調べたほうが楽しいじゃない?」

ジャズ・カフェ・オサレ。この3点を押さえただけで、村上春樹的文法で登場人物の会話を書く背景は整ってしまう。当然時刻は夕方過ぎ、西日が入っている店内で、できればコップを拭いているマスターと、気だるく話しかける女性、そして端っこの席でコーヒー(レイコーなどと言う客がいるような店ではない)を飲みつつ本を読みながら会話を盗み聞いている僕、という構図も浮かびあがってくるだろう。そして、ゆるやかに話は展開し、最終的には「やれやれ」と言ってまたコーヒをひとくち飲む、みたいな。

現実とは残酷なもので、僕はブラックコーヒーが飲めないお子様な味覚の持ち主なので、ココアとか注文しちゃうし、だいたいカウンターでコップを拭いているようなマスターがいる店には気後れして入ることなんかできない。おしゃれな店員がいる店では服が買えない僕にはやはりこの類の店も鬼門なんである。

そもそもこの季節、節約のために、パックで水出ししたウーロン茶をペットボトルに入れ、凍らせたものをタオルにくるんで持ち歩いちゃったりするので、喫茶店などという王侯貴族が行くような場所に足を踏み入れる必要はない。

とはいえ僕もぜったいに喫茶店に行かないというわけではなく、某☆バぐらいのレベルのところならたまに行くこともある。だけど1年に1回行くか行かないかぐらいだし、行く度に大きなダメージをくらってしまうので気が進まない。友人などが「行こう」と言うときぐらいである。

とかいいつつ、先週に某☆バックスに行く機会があった。しかしやはり深手を負ってしまったのである。通いなれている人は、サイズが「Tall/Grande/Venti 表記になっていて、そこから選ぶということはよく知っていることだろう。☆バ初心者の僕は、そもそもイタリア語がわからないので「Ventiってなんだよ…」と一瞬怯むわけだが、そこは31年この社会で生活してきた熟練者なので、この程度の「わからなさ」に立ち往生することはない。

だから、たとえ書いてある文字の意味がわからなかったり、そもそも発音の仕方がわからなくても、違うふうに言い換えることができるのである。

「まんなかので」

これなら間違いない、と確信した注文の仕方だったと思う。でも、店員さんは「えと…」とか言い出すのである。すでに☆バのプロフェッショナルな人はお気づきかと思うが、☆バのメニュー表にはたしかに「Tall/Grande/Venti

の3つしか表記がないところが多いのだが、実は「Short」も対応可能なサイズとしてはあるので、実際に選択できるサイズは4つなのである。だから、「まんなか」というのは存在しないことになる。

「ご注文伺います」

「えと…コレ(うまく発音できないので、メニュー表指差し)のまんなかので」

「えっ…、あの、Shortもございますので…」

「あ…それじゃあグランデで(読み方、合っててくれっ…)」

単語が読めない・わからない問題で怯み、それを乗り越えようとする試みも粉砕するこの一連のシーケンス…。僕にはそれでもなお☆バが流行っている理由がよくわからないのだが、きっと日常的にあそこを利用できる人っていうのは僕と違う世界の住人なのだろう。

そしてたぶん、その世界の住人は、収入も高くて、周囲の人たちから慕われていて、間接照明を持っているような人たちだと思う。

そういう人たちにモテたいという動機で音楽を作ろうというのは、きっと上昇志向のあらわれなのかもしれないね。

という解釈を「僕が環境音を録音して音楽を作ってカフェとかで流せるといいな」という発言を受けて延々と友人にされ、つらい気持ちになっているところです。

ついでに言うと、また締め切りを破ったので、室根さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいでいるところでもあります(ペロリ)。

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# vol.6

 足が大きいんだねとよく言われるので、「大地を人一倍踏みしめてきた結果ですわ」とか適当な返しをするようにしている。テンプレ回答のひとつに「バカの大足っていいますけども!」というのもあるが、自己卑下的応答は相手に「そんなことないですよ〜」みたいなフォローを要求することに繋がるので、言ってる自分はいいかもしれないが、相手には負荷が高い応答であることに気づいてからは封印している。

そういえば、僕の身長は173センチでまあ標準的な背丈なのだけど、肩幅があるからなのか、「もっと大きく見えるね」と言われることも多い。そういうときは「器の大きさが、実物より私を大きく見せているのかもしれませんね…」などと尊大なことを言ってみたりすることもあるが、これは相手に応答負荷を強くかけている可能性があることに今気づいた。こんなこと言われた人は、とりあえず失笑するか、「ですよね〜」と心にもない同意をすることになるんだろう。これはつらい。大変反省している。

しかしこう考えると、「大地を人一倍踏みしめてきた結果ですわ」もめんどくさい感じだな…。いったいどう応答するのがベストなんだろうか。大変難しくなってきた。そもそも僕に対して「足が大きいんだね」とか言わなければこんな悲劇は起こり得ないわけなので、つまりは話しかける人が悪いのではないだろうか。でもあまりに無視されるのも寂しいものがある。

などとまあ、いろいろめんどくさいことを思い出しつつ考えつつ、室根さんに足を計測してもらったとき「足はそんなに大きくないですね。ただ甲高なので云々」と言われたこともまたいま思い出した。実は「足が大きい」ということは、知らず知らずのうちに僕のアイデンティティを構成する重要な部分になっていたようで、なんとなく抵抗したい気分になったのを覚えている。「足が大きい」、それが根底から覆されたことになる。

「えー!29センチの靴履いてるのー!?おっきいね!」とキャーキャー言われることにある種の優越感を感じていたことは間違いないのである。それを、室根の野郎…。まあ、自分の足が言うほど大きくないことは気づいていた。甲高ゆえに既成靴はうまく履けず、結果的に大きめの靴を履くようなったというだけのことである。ただ、大きめの靴を履いている=足の大きさもそれと同じくらいという推測が働くので、結果的に周囲の人たちは「秋谷の足はデカイ」と認識するに至ったという単純な話だ。そして、そんなみんなの期待を裏切らないようにしようという僕の生真面目さが、「ん?俺の足?デカイよ?」と嘘をつき続けることになったというわけです。31年間、嘘にまみれた人生であった。

室根さんは「もう嘘なんてつかなくてもいいんだよ…」などということは微塵も思っていなかっただろうが、結果的にそれに終止符を打つことになったのは寿ぐべきことなのかもしれない。「足のかたちにぴったり合った靴が、僕に嘘をつかなくてもいいって教えてくれた」…これコピーに使ってもらっていいですよ。

 しかしこう、つらつらと自分のことばかり書いてしまった。このワードプロセッサを立ち上げたとき、僕は「歩行訓練」について書こうと思っていたのだ。目が見えない状態で街を歩くとき、何を知覚して「歩く」ということを行なっているのか、そして、それを支援し、環境情報をインストラクションしていくというワークはいかなるものなのか、ということである。

 「大地を踏みしめる」というところから、足の裏で地面の情報を知覚していくことに話しを繋げていく予定だったのである。どうしてこうなってしまったのだろう。なぜ予定通りにものを書くことができないのだろうか。しかし今更ここまで書いたこの原稿を消してあらたなものを書くのはしんどいので、このまま室根さんに送信することにします。

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# vol.5

 「待つ身がつらいか、待たせる身がつらいかね」とかの太宰治は壇一雄に言ったというエピソードを思い出しながらこの原稿を書いています。

 拝啓、室根様。毎月20日より数日前に原稿送ってね、と室根さんが僕に言ったこと、ちゃんと覚えています。でも、いまは5月26日。〆切はとうに過ぎています。迷惑をかけている——この焦燥感がかえって僕の筆の動きを阻んでいるのです。慚愧の数だけ涙を零せば呵責の鎖が切れるというのか——と青森出身、ファーストアルバムのスペシャルサンクスに「津島修治」と書いたかのロックバンドが唄っていたのが頭をよぎります。とはいえ、自分を責めれば許されるような単純な話だとは思っておりません。

 とまあ殊勝なことを書いてみたけど、実際そんなに焦燥感にかられているわけでもなく、慚愧で心が千々に乱れているわけでもない。もちろん、申し訳ないとは思っている。きっと室根さんなら許してくれるだろうという打算もある。彼の優しさにつけこんで、雨に濡れた子犬の目で「まだ書けてないんです…」と言えばきっと「いいんですよ、〆切なんて。秋谷さんが日々健やかに過ごしてくれるなら」とほほ笑みながら言ってくれるに違いないのである。冒頭に太宰のエピソードを引いたので無頼派テイストでいくかと思わせておいてただの無礼派ではないかと思う向きもあるやもしれない。まあいい。

 太宰ということでふと思い出したが、彼の「音について」という文章にこんな一節がある。

「音の効果的な適用は、市井文学、いはば世話物に多い様である。もともと下品なことにちがひない。それ故にこそ、いつそう、恥かしくかなしいものなのであらう。聖書や源氏物語には音はない。全くのサイレントである。」

 なるほど生活というものを書こうとするなら、音の効果的な使用は外せないものであるということなのだろう。たしかに音のない静謐な世界が書かれるとき、それは現実離れした別世界の出来事を書く場合が多い気もする。……きこえますか… きこえますか… 室根よ… 室根よ… 秋谷です…… 今… あなたの…心に…直接… 呼びかけています……〆切破りに…〆切破りに…心を乱されている場合では…ありません…というかんじだろうか。ここに音はない。

 しかし太宰が間違っているのは、源氏物語には音の表現は出てくるのである。擬態語に比較して擬音語の使用は少ないのだが、ないというわけではない。

「衣の音なひ、はらはらとして、若き声ども、にくからず

(箒木巻)

「火は、ほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風のかこみ、ここかしこの、隈隈しく、おぼえ給ふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後より来る心地す」(夕顔巻)

 適当に検索してもこれぐらいは出てくる。「はらはら」「ひしひし」がそれである。つまり太宰の「源氏物語には音はない」というのは間違っているのだが、とりあえずそれは置いておこう。ここで考えたいのは、生活のなかの音、これである。生活音は様々なので、ここでは足音に限定したい。

自分の、あるいは他人の足音を聞くのはいつか、という問題がある。足音は人の存在を知覚させる。しかし、喧騒のなかにおいては聞こえないことのほうが多い。静かな場所、音響がある場所において足音は他者の存在を知覚するリソースとして機能するといえる。

 しかし一方で、足音が聞こえるということは、場所によっては管理すべきものだとされている側面がある。図書館ではハイヒールは慎むべきだという張り紙があったりする。踵部分が硬い靴を履いて歩くと、階下の住民に迷惑なのでそろりと歩けと注意されたりもする。

 他方で、足音は快楽的でもある。カッカッカッとリズミカルに音を出しながら歩いていると、高揚してくる。一定のリズムを刻みながら音響のよいところで、質のよい革靴の踵を地面に打ち付けていくのは大変よい。この個人的な快楽と社会的に慎むべきだとされていることとをどう折り合いをつけていくのか。これが僕の当面の課題になっている。

 そういえばこの間こんなことがあった。今出川通りをまっすぐ抜け、吉田山方面に歩いていたときのことだ。深夜であったので人影もまばらななか、僕は家路を急いでいた。深夜なので自分の足音がよく聞こえる。それに外だし、まあ少しくらい足音を楽しんでもよかろうと、少し意識して足音をたてて歩いていた。いい革靴はいい足音を出す。ほどよいテンポの曲を聞きながら、それにあわせてリズミカルに歩いていると、やはりだんだん高揚してきていい気分になる。

 そんなかんじで歩行を楽しんでいるとき、15メートルくらい先を歩いている女性が急に走り出したのが目に入った。まあよくあることである。背後から何者かが近づいてくるのはこわい。ちょっと距離をとったのだろう。自分の足音が聞こえるとき、それはまた他人も聞くことが可能だ。

 足音が聞こえるから防御体勢をとれる。これはとても重要なことだ。足音なく近づいていって急に追い越したらそっちのほうが恐怖心を与えるだろう。比較して考えるなら、これからも深夜は足音を立ったほうがいいかな、と考えた。しかしこれは当面の僕の深夜歩行の方針であって、今現在どのような行動をとるのがベストかということは別途考えなければならない。15メートル先の人になるべく恐怖心を与えずに歩きたい。

 15メートル先の人の歩行スピードは僕よりも遅く、追いつくのは時間の問題と思われた。たぶんそのことは、僕の足音を聞くことである程度向こうも推測できるはずだ。だんだん近づいてきて怖くなったのだろうから。ならばひとつの安全策として、「明るい場所で僕に抜かされる」というのがベストなのかなと思ったが、その人はほんのすこしの距離を「走った」のであった。つまり、追い越させはしないぜ、ということである。そこでふと思ったのは、追い越させることが必ずしもベストではないのかもしれないということだ。もし僕が真性の変態であったなら、追い越させた時点で大変なことになる。むしろ振りきらなければならない。これは納得だ。

 そこまで考えたとき、僕がその人に対してできる精一杯の対処法は、「僕が歩行スピードを落として、その人からゆっくりと距離をとること」であろうと思いいたった。スピードを調整する労を相手だけに課してはならない。苦労はわかちあいましょう、恐怖心のない街歩きを達成するために。

 とはいえ、僕も帰宅しようとしている人間なので、急に減速してもただ帰宅時間が伸びるだけなのでそれはそれでいやである。しかもゆっくり歩くというのはつかれるものである。というわけで、15メートル先の人の歩行スピードを推し量りつつ、ほんの少しずつ離れていくペースを模索するということをしはじめた。

 こんなかんじで調整していくと、ある瞬間は、15メートル先の人と歩行のリズムが合ってしまうということがある。これは致し方ないことなのだが、ここにひとつのトラブルが生じた。リズムが一致して少し経ったとき、15メートル先の人はまた小走りに少しの距離を走って僕と距離をとったのである。リズムが一致するということは、そこになんらかの意図を感じることを可能にするのだろうか。「やだ…後ろの人、私の歩調とあわせてきた…!!」こんなかんじなのだろうか。

 足音ひとつでこうも駆け引きが起きるとは。歩行ペースを落としている最中に小走りされてしまったので、万策尽きた僕は、言語実践で自身が無害であることを主張しながら15メートル先の人を追い越すという最後の手段をとることにした。電話をしているふりをしつつ、しかもその話の中身を実に無害そうな内容にしつつ、さっと抜き去るという作戦である。これがどれだけ彼女の恐怖心を低減させたのかよくわからないが、ひとまずそうやって彼女を抜き去って家に帰ったのであった。いったいどうするのがベストであったのだろうか。まだ悩んでいる。

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# vol.4

 つい先日のことだけど、靴の様子を見ながら歩いていたら、「なんか思いつめてたかんじで声かけられませんでした」と言われるということがあった。僕はただ、左足の靴紐がほどけていたので結び直すタイミングをずっと図っていただけだったのだけど、どうもそのようには見えなかったらしい。この時期の京大周辺は新学期が始まったということで往来は学生だらけで、しかも自転車が大量に行き来するのでおちおち靴紐も結べない環境なのですよ。

それはそれとして、問題は「靴を見つめていたら思いつめているように見える」ということだ。下を向いて歩いているというのは、容易に話しかけられないほど強いメッセージ性がある身振りであるようだ。

そういえば、友部正人の詩に「鎌倉に向かう靴」というのがあった。

鎌倉がどこにあるかは 鎌倉に向かう靴が知っている

鎌倉に何があるかは 君の目と心に聞くがよい

という出だしから始まる優しい詩で、

クラッククラック歩くには鎌倉に向かう靴がよい

という一節が繰り返されて終わる。

文字情報よりも先に音声情報から入ったので、長らく僕はこの部分を「暗く暗く歩くには鎌倉に向かう靴がよい」だと思っていた。この詩自体は、鎌倉まで目的もなくぶらぶらと歩いて行くカップルだか友人二人組だかが、鎌倉でビールを飲むなら紀ノ国屋の駐車場で飲めばいいとか、海岸を靴を脱いで歩いたらまた鎌倉に向かう靴を履いて鎌倉に向かいましょう…といったかんじの牧歌的なかんじなので、最後の「暗く暗く」のところが急展開な感じがして気になっていた。もちろん、それは僕の勘違いなんだけど。

ただ、急展開ではあるにせよ、変だとは思わなかった。長く歩いていればそりゃ喧嘩もするだろうし、だんだん疲れて気分も落ち込んでくるだろう。そこでフォーカスされるのが「靴」なのはよくわかる。だって、下を向いて歩くってことは、自分の靴を見ながら歩くってことだから。

この詩を聴いたのは高校生のころだった。その頃千葉の津田沼や船橋らへんをうろうろしながら僕はデビューしたてのスーパーカーとかを聴きながら本八幡の古本屋に積み上げてある音楽雑誌を毎日のように読んでいたので、どうやら「シューゲイザー」というジャンルがあるらしいということは知っていた。でも、ブラッディ・ヴァレンタインは知らなかった。その程度だ。とにかく内気な青年が下を向きながら大きな音を出して、でも歌はなんか囁き系でという様式だけは知識としてあって、なんと面倒くさい奴らなんだと思春期まっただ中の僕でさえ思ったものだ。

そう、面倒くさいわけです。靴を見つめている奴というのは。なにか内にどろどろしたものを抱えていて、それを爆音に乗せて放出しているんだけど、出で立ちは棒立ちで下を向きながらぼそぼそ甘い歌詞をささやいているというギャップ。体面は格好つけちゃうけど抑えきれない自意識と日々戦う思春期の姿そのものだ。

面倒くさい奴らは下を向いて外を歩いている。もとい、靴を見つめながら歩いている。靴を見つめている姿の理解可能性は、こうした様々なネガティヴな概念とつながっている。だからこそ、「話しかけられない」のだろう。

これは、「話かけられなかった」人固有の現象ではなさそうだ。「暗く暗く歩くには鎌倉に向かう靴がよい」をネガティヴな意味でもって自然に解釈できてしまった当時の僕がいたのは事実だし、シューゲイザーが揶揄的な意味も込めて「シューゲイザー」と呼ばれた所以を思い起こせば、それはある程度僕たちに共有された「見方」だと言ってもいいだろう。

こんなことを考えながらの移動中なわけですが、そういえば「大人のオシャレは足元から」とか、「どんなに格好いい服を着ても靴がダメだと台無し」みたいなことを言われたり、雑誌で見たりすることがあるなーということを思い出した。でも、オシャレな靴を履くというのは案外難しいことなのかもしれない。だって、格好いい靴を買ったら、歩きながらその靴を見てうっとりしたいじゃないか。でも、靴を見ていると「内気」とか「暗い」とか「面倒くさそう」と見られてしまう危うさがある。難しいのは、そういう危うさもまた「オシャレ」のカテゴリーに入るのかもしれず、なんとも言えないところだ。面倒くさそうなこじらせ系ネクラ少年がファッションヒーローになってしまうような場合もある。このへんはちゃんと調べないとだめだろう。

もし靴を見ないで歩くことが、靴を見ながら歩くことよりもオシャレであるというのが成り立つのなら、その場合はオシャレというのは自分のためにするものではなく、あくまでも「それを見る他人の目」に準拠してなされるものなのかもしれない。自分が見るというよりは、他人が見て「いいね」と思うことのほうがプライオリティがある行為をオシャレと言うのかな。もちろんそんなことはないとは思うけども、こと靴に限ってはこうした難しさが存在するんだろう。

ちなみに今日の僕の足元は東京靴流通センターで1000円で買ったクロックスのニセモノです。もう外は十分暑いし何より楽なので。

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# vol.3

 さて、前回は「つづく」なんて表記をして、この物語は次回急展開を迎えるんだぞ的な雰囲気を醸しだしてみたわけですが、そんな大見得を切ってしまったことをいくらか後悔しています。

というのも、三十路に合ったステキ服をちゃんと買えたなら大団円、誰も悲しまないハッピーエンドなわけですが、残念ながらそうはならなかったのでした。僕は別にミステリー作家的エートスをもっているわけでもないし、それに、この文章を締めるまでの間、かの日に起きたことの記憶を維持できているという保証も自信もないので先に簡潔に述べておきたいと思います。

――しばらくおしゃれな服屋さんに出入りしていなかったせいで、いわゆるおしゃれ服の価格設定というものを完全にはかり損ねたので、いい歳こいて手持ちのお金ではおしゃれなハンカチくらいしか買えないという事態に陥ったというのがまず最初の躓きであった。涙を拭くにはハンカチで十分。でも、それだけじゃあ舞台には立てないんだ!

さらに、やはり店員さんと一言も会話ができないというのも大きかった。「何をお探しですか?」と聞かれれば、(服に決まっとろうが…)などと心中で筋違いな毒を吐いてしまうような人間が初対面の相手と円滑なやり取りができるわけがないのだ。

しかも、「えと…その…」とこちらがもごもごしている間に、「あ、これですか?」と僕が手にもっている服を見て、「これ私も色違いもってるんですけどね、いいですよお」とか言うわけです。初めて会ったその日にペアルック宣言されても…。押しには弱いほうだけど、ちゃんと段階は踏むべきなんじゃないかなあ…。でもペアルックを要求してくるような人とは親密な関係は築けないなあ…。などと思っているうちに相手は矢継ぎ早に言葉を重ね、僕は僕で段々相手の言っているを聞き取れなくなり、かろうじて「ちょっと他のとこ回ってきます」と言って二度とそこには帰らないということを繰り返しているうちに高島屋も大丸も回りきってしまうということになったのだった。

クラスの半数以上がユニクロのフリースを着て登校してくる総ユニクロ状態を幼い頃に経験し、その衝撃的な光景が忘れられない今年31歳の僕は、安い大量生産系の店で上着を買うことはできるだけしないようにしている。しかし、セレクトショップ系は上述のとおりだめ。では僕がどういう風に服を調達しているかというと、簡単に言うと他の人の買ってきてもらったりするわけだが、その話はまたいつか。今日も僕はまわりの人たちに助けられて生きています。

話は唐突に変わりますけども、日常的なリスクは別に服屋さんだけにあるわけではない。ここ京都に暮らしていると、目的地にたどり着くことのむずかしさについて思いを馳せることが非常に多い。おそらくそのむずかしさは、いわゆる碁盤の目のなかで醸成された文化的な何かに起因すると思われる。

それがどういうことかというと、端的に言うと、道案内の語彙が関東地方のそれとはまったく違うということだ。京都の人は東西南北を指標語として使う。「この通りを北にずっと行ったら、○○通りのところを東にちょっと入ったとこだよ」というかんじだ。街は条里制によってデザインされているので、「○○通り」と言うだけで豊かな情報を提供していることになるということも特徴だけども、さしあたりここで考えたいのいは東西南北である。

関東平野に育った人間としては、周囲に東西南北を常に認識できるようなものを持たずに生活してきたので、方向を指し示す語彙に東西南北はないと言ってよい。逆に京都の人からすれば、「○○通りを北上せよ」と言えば済むようなことを、関東の人間は「○○通りまで出たら、△△店っていうのが見えてくるから、今度はそこを背にして右のほうにまっすぐ歩いてきて」などと言わねばならない。つまり、目印として言語化して伝えなければ情報が多くて面倒くさくない?ということになるかもしれない。

街中に東西南北が認識可能なシンボルがないので、関東平野で育った僕たちはいつも、身体が特定の場所でどこを向いているのかを会話のなかで常に確認していかないと、たちどころにお互いの身体配置の認識がずれて迷子になってしまうということがある。どの道を真っ直ぐ行くのかということは、その瞬間、身体がどちらの方向を向いているかに規定される。電話口での道案内を思い出してもらえばよい。右手に何が見える?とか、□□店が左手のほうに見えるから、そのまま真っすぐ歩いてきて、など、身体の向きにくっついた語彙――右左、前後ろなど――を使うことが多いのではないだろうか。

他方、京都では、五山の送り火で有名だと思うが、いくつかの山に囲まれている。そして、そのうちのいくつかは、明らかに東西南北を示すシンボルとして機能している。吉田山があるほうが東、という按配だ。だから、電話での道案内も一発、「○○通りを北のほうに」で端的にわかってしまうのだ。

これは別に京都に限ったことではなく、生活のなかに山がある土地ではだいたい見られることかもしれない。日本が山だらけであることを考えれば、むしろ関東平野の人間のほうが「変」なのだろう。東西南北が極めて有効に機能するのは、京都市の市街が条里制になっていることも関係しているだろう。また、道がくねくねしていると、今度は「まっすぐ」といった表現が使えなくなるので、ことは難しくなる。それでも、「とにかく東のほうを目指せ!」とは言えるわけだ。

他にも、「上る/下る」という表現が京都にはあって、これまた理解するのに多少の時間を要した。キーボードをタイプするのがしんどくなってきたのでこのへんでもう話はやめるが、とにかく強引にまとめると、別に観光地や儀式に触れずとも、言語を通して僕たちは異文化に会えるということだ。それは別に方言とかだけではない。場所を指し示すインデックス表現にもそれはある。ほかにもいろいろあるだろう。こうしたことを日々のくらしのなかから発見していくことは、存外楽しい。

しかし、この文章をいま見なおしてみたけど、冒頭では服の話をしていて、この文章のオチを最後まで覚えている自信がなからもう頭に書いちゃうみたいなことを書いていたが、この点にかんしては、僕は自分のことをよくわかっているなあと関心した。たしかに、当初予定していたこととはまったくオチを――正確には、まったく違う話をしている。まあ、こういうときもあるのだ。

| comments(0) | - | 00:54 | category: エッセイ:秋谷直矩, 京都 |
# vol.2

 普段からいい加減な格好をしている。僕自身としては合理的選択の結果でしかない装いも、世間的には必ずしもそう見られないということはさすがに知っている。だから、「ちょっとやり過ぎかなーとは思うんですけどね、でもラクなんですよー」などと先手を打つこともある。「〜とは思うんですけどね」と頭で言っておくことで避けられるトラブルは多い。「あなたが言いたいであろうことはわかっております。その上でわたくしはこのようなことをしているわけでしてね」ということだ。

 さらに言うと、「いい加減な格好」というのも難しいということ、これを知っておいてほしいと思っている。ただ流行モノを押さえるということなら、お金で解決できる。別にセンスはいらない。マネキンが着ているものをすべて剥ぎ取ればいい。マネキンが身に着けているもの、それが流行りものだ。でも、ただ単に「いい加減」という評価を得るのは難しい。これはお金では解決できない。マネキンだっていい加減な格好はしていない。センスが問われる。頭髪を例に出して説明しよう。

 楽さの極地は坊主だ。多少の虎刈りは気にせず、バリカンでわあわあと刈ってしまえばいい。ぜんぶ石鹸で洗えるようになることで、体と頭が地続きであることを自覚できる。乾くのも早い。寝ぐせもつかない。文句のつけようがない。

 ただ、僕たちの社会では準拠する集団によっては「坊主NG」であることは少なくない。つまり、万能ではない。しかも、バリカンを使う頻度を少なくしようという合理的判断で限りなく短く刈ってしまったとき、今度は逆に「主張があるな」と積極的に解釈されてしまう危険性がある。スキンヘッドには主張がある。そう、反体制だ。「いや、そういうんじゃないんですよー」と言っても、「なんだてめえファッションパンクか」と言われて一発殴られることは容易に予測できる。

 では伸ばしっぱなしはどうだろうか。なにもしないのだから、楽ではある。でも、これもダメだ。やはり反体制だと思われてしまう。ヒッピーを思い出してもらえばいいと思う。サマー・オブ・ラブ。みんなでグレイトフル・デッドを聴きにいこう。

 とにかく、坊主・長髪もどちらも反体制の象徴になってしまうのならば、平穏無事に過ごしたい人間からすれば選択肢はひとつ、その中間を目指すしかない。しかし。それは短かすぎてもだめで、長すぎてもだめ。定期的な「手入れ」をして、維持することによってようやく獲得できるものだ。横分けハンサムボーイがハンサムなのは、長すぎず短すぎずを維持したうえで、ちゃんと櫛を通してポマードべたりを毎日やっているからこそだ。それを毎日続けることのしんどさは想像できない。でも、大半の人はそれを毎日やっている。えらすぎると思う。ここまで見ていってわかるように、ふつうであることは大変であり、非合理的である可能性すらある。それはなにも頭髪に限ったことではないと思う。

 以上の話を服にあてはめて考えてもらうと僕の言っていることが伝わるかと思う。「いい加減な格好」が難しいと冒頭で言った理由は以下のとおりである。極端なものと解釈されないバランス感が「服を着る」という行為にも求められている。「いい加減」という評価は、「変」という評価のギリギリ手前を維持していることだとすると、この「ギリギリ感」を理解し、その綱渡りを失敗せずにこなしていくためには、「普通であること」に精通していなければいけない。さらに、「変であること」にも精通している必要がある。そうじゃないと、この狭間を常に維持することはできないだろう——こう考えるとなかなか高度な行為だということがわかると思う。

 しかも、そうであることが世間一般から非難される可能性があることを十分に知っていて、その非難を華麗に交わす技法も身に着けている必要がある。これをちゃんと身に着けていなければ、同調圧力に屈するほか取りうる選択肢はなくなってしまう。冒頭述べた「〜とは思うんですけどね」はその技法のひとつだ。

 ——まあここまでつらつらと述べてきましたけども、三十路を超えてだんだん「ちゃんとした格好しなよ」という周囲の声がつらくなってきたので、京都は大丸・高島屋・伊勢丹を行脚して参りました。人間とは弱いものです。どんなに確固たる信念があったとしても、あるいは理屈をこねられたとしても、水滴岩を穿つのことばのとおり、揺らいでくるものです。嗚呼、嗚呼。

 洋服を買いにいこう。後ろ指さされないようなちゃんとしたやつを。三十路にふさわしい、仕立てのしっかりしたものを。——しかしそれは長くつらい道のりの始まりであったのでした。

「なにかお探しですか?」

つづく

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