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# そして、つづいてゆく

早いものでまた今年も残りわずかになった。子どもの頃は1年がとてつもなく長く感じたものだけれど、年を重ねるにつれてあっという間に過ぎ去っていくようになった。

今朝は、初回のエッセイを書いた時と同じコースを走ってみた。走り始めは寒くて鼻水は出るし、耳はちぎれそうで、手先は感覚がなかった。それが5分と経たないうちに鼻も耳も手先もじんじんとしびれてきて、血液が全身をめぐっているのを感じた。じんわりと身体が温まるのと同時に、頭もすっきりとしてきた。身体の中の悪いものは汗と一緒に振り落として、冬のつめたい空気とともに、前向きでポジティブな気持ちが身体を満たしていった。

思えばいつだってそうだった。嬉しい時、楽しい時、悲しい時、イライラしている時、どんなときも走ることが心の平穏を取り戻す手助けをしてくれた。わたしにはランがあるから大丈夫、そう思うことでつらい場面をやり過ごすこともできた。日常生活に運動習慣を取り入れることで身体の調子も整い、体力もついていろいろなことを楽しめるようにもなった。

ただ、自分のために走ること。それがわたしにとってどんなに重要で意味のあることか、それを再確認できた1年だった。とってもぐうたらなわたしは、この先もきっと走るのをお休みしてしまったり、またばかみたいに走ってみたりするだろう。それでもこの1年ランに対して感じたこと、エッセイを通して言葉にしたことは決して忘れないと思う。

空が青い。明日もきっといい日になる。

| comments(0) | - | 23:25 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# その先に見えるもの。

ウルトラマラソンをご存じだろうか。フルマラソン(42.195km)より長い距離を走るマラソンのことで、北は北海道から南は沖縄までたくさんの大会が催されている。

わたしがウルトラマラソンの存在を知ったのは走り始めてすぐの頃。わたしをマラソンに誘ってくれた知人が、毎年北海道でおこなわれるサロマ湖100kmマラソンに参加していた。当時は100kmも走るなんてどうかしていると思っていたし、まさか自分が走れるなんて夢にも思わなかった。

でもそれからしばらくして、わたし自身も沖縄県の宮古島で100kmマラソンに挑戦することになった。制限時間内に完走を目標に、ウルトラを走り慣れているラン仲間のアドバイスに従って、とにかく長い時間身体を動かし続ける練習をした。朝から晩まで1日中歩いてみたり、走ったり歩いたりを繰り返しながら5時間6時間と動き続けたりした。ウルトラマラソンに向けて走った最長距離は60kmで、正直不安な気持ちだった。

ところが100kmマラソン当日、スタートした直後はお祭り気分でわくわくしていて、「もうなるようにしかならないや」と開き直っていた。その後もちろん時間が経つにつれて脚が痙攣したり、呼吸が上がってきたり、いろいろなアクシデントに見舞われたのだけれど、今までフルマラソンの大会では経験したことの無いようなことがたくさん起きて、とても楽しかった。ハーフやフルだとタイムを気にして走るので、自分も周りも割と殺伐としている。走りながら世間話をしたりなんてことはないし、給水のときも足を止めずにさっと走り去る。でもタイムを気にしないウルトラはみんながのんびりで、「どこから来たのー」なんて話しかけられたり、風の強い橋の上では「わたしの後ろを走りなさい」と風よけになってくれたおじさまもいた。みんなが本当に走ることを楽しんでいる感じがした。

フルマラソンの大会中は苦しくて「なんでお金払ってつらい思いしてるんだろう」とか思ったりするのに、ウルトラマラソンでは不思議と一度もそう思わなかった。朝から晩まで走れて幸せだなぁ、楽しいなぁ、とそればかり思っていた。もちろん全くつらくなかったと言えば嘘になるけれど、12時間半も走り続けられたこと、100kmもの距離を自分自身の脚で移動できたこと、いつでもやめてよかったのにやめなかったこと、そういうことがすべて自分の生きる力になった。信じられないことに、それは走り終えて3年の月日が経った今でも力になっていて、あのとき100kmも走れたのだから大体のことは大丈夫だと思える。それってものすごいことだと思う。

また、冬が来る。

| comments(0) | - | 23:23 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# からだ、しなやかに。

残暑と呼ぶにはあまりにも暑く、時季はずれもいいところだろうと思うのだけど、それでも朝晩はずいぶんと涼しくなってきた。空の色や雲のかたち、風のにおいなんかはもうすっかり秋だ。

ここ数年、暑さがひと段落するこの時期に体調を崩している。今年も例外ではなく、元気であることのありがたみや、身体のバランスを整えることの大切さをかみしめつつ、自分の身体と向き合うことについて考えてみた。

日常生活の中では、頭痛や肩こりのように痛みを伴う場合は別として、あまり自分の身体に意識を向けることはないように思う。きっと雑音が多すぎて、自分の身体と向き合うだけの静けさが足りないのだ。でも走っている間は、テレビもネットも携帯もなし。ただ、流れてゆく景色と自分だけ。そうなると自然と自分の内側に意識がぐっと向いてくる。すると痛みはもちろん、なんとなくだるいな、いつもと調子が違うな、というような小さな違和感もつかまえることができる。

そしてある日、おもしろいことに、その小さな体調の変化は睡眠や食事と関係があることを発見(!)した。睡眠時間は短くても長すぎても調子が悪く、起床時間によっても変化があった。食事の影響はより顕著で、外食が続くと確実に調子が悪くなった。食事量はあまりに大量でなければそう影響はなく、食事内容が問題のようだった。油っぽいもの、肉の威力はすさまじく、しばらく不調が続いた。化学調味料たっぷりのインスタント食品や大好きだったジャンクフード、ストレス解消と食べまくっていた甘いものも身体には悪影響を与えているようだった。その場では楽しく飲んだつもりお酒も、翌日はなんとなく身体の中が淀んでいる感じがした。

そうか、すべてはつながっているのか、と気が付いた。食事、睡眠、運動は身体の調子を整えるのに必要なもの。そしてその身体はすべての基礎となるもの。心や、自分のまわりのこと、もっと大きなことをよきものにしてゆきたいのなら、まずは身体を整えることが大切なのだと思えてならなかった。

と言いつつ、悪しき生活習慣を改めるのはそう容易なことではなく、懲りずに毎年同じ時期に体調を崩している。長い時間をかけて蓄積してきたものはそう簡単に変わらないよな、なんて苦笑しつつ、それでも少しずつでも変わってゆけたらと願いながら、秋の空を見上げている。
 

| comments(0) | - | 23:21 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 夏の終わり、小さな決意。

今年の夏はとにかく暑かった。連日、最高気温が体温と同じくらいになり、部屋の中でじっとしていても汗がだらだらと流れてくるような日々が続いていた。しかし、暑さに拍車をかけていたセミたちの大合唱がだんだんと小さくなり、涼しげな秋の虫たちが鳴きはじめると、やっと夏の終わりが見えてきた。虫たちの鳴き声を追いかけるように、朝晩の気温は下がり始め、時折吹く風は爽やかなものに変わってきた。すべてのものを焦がすような勢いで照りつけていた日差しも、いつのまにか少しやわらかくなってきた。

走るたびに流れる汗は相変わらず滝のようだけれど、身体の感覚も変わってきた。以前より足取りが軽くなり、少しだけ速く走れるようになった。そしてふと、思った。「もう一度、自己ベスト更新を目指して走ってみようかな。」

わたしにとって走ることは、自己実現の手段のひとつでもある。学生時代は定期的に試験があり、自身の努力とほぼ比例して結果を得ることが出来た。当時は考えもしなかったけれど、その結果はわたしの中で自己肯定感として積み上げられていたようだった。しかし、社会人になると、努力が目に見える結果となって現れることは少なくなる。とにかく目の前のことに必死になってばかりいたら、小さな挫折感が徐々に積み重なり、自己肯定感は少しずつ削り取られていった。以前は走ることでバランスを取ってきたけれど、一度走るのをやめた時、それもまた新たな挫折感となっていた。ほんの小さな挫折感でも、積み重なると日常生活にまで影響を及ぼす。何か新しいことをはじめようとしても、またやり遂げられないのではないか、という考えに支配されてしまう。そうなると、ちょっとまじめに考えなくてはならない時期だということになる。

『走った距離は大体裏切らない』これは、わたしが尊敬するランナー仲間がかけてくれた言葉だ。練習すれば必ず目標達成できる、とは言わないけれど、練習すれば大抵はそれに見合った結果は得られるという話だった。つまり、マラソンにおける目標を達成できるか否かは自身の努力にかかっているということだ。いろいろなことを中途半端にして、ほんの少しの自信さえ失いかけている今、この挫折感に打ち勝つにはまた真剣に走ってみるべきなのではないか。秋を感じさせる風に吹かれて走っていたら、自然とそんな気持ちになっていた。

またひとつ、次の季節へ。

| comments(0) | - | 23:19 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 真夏のおすすめ



毎日暑い。暑すぎる。気温35℃だなんてどうかしている。もうほとんど体温だ。こんなに暑いと走るのはもちろん、歩くのだって嫌になってしまう。

運動はしたいけれど、とにかく涼しいところ・・・というわけで、登山に行ってきた。長野や石川・富山方面へ出かけるとき、愛知に住んでいてよかったなぁと思うことが多い。登山が趣味の友人いわく、長野あたりは日本百名山に名を連ねるような有名な山がたくさんあるので、最高らしい。

今回は、王滝口から木曽御嶽山に登ることにした。頂上の標高は3,000mちょっとあるので涼しいに違いないと理由からだった。標高2,160mの登山口までは車道で上がれるので、頂上までの標高差は800mちょっと。往復6時間くらいで歩けるコースだ。登山口に着いて車を降りると、もうすでに涼しい。雲も少なく、天気は良好。富士山が見えるかも、と期待しつつ登り始めた。

登山道を進むと、しばらくはずっと木や草が生い茂っていて、いろいろな鳥の鳴き声が聞こえた。立ち止まっては姿を探したが、なかなか見つけられなかった。むせかえるような緑のにおい、鳥たちのさえずり。さらに進むと、ぱっと視界が開ける。登山口もかなり標高が高いので、少し進んだだけでまわりの山々を見下ろすことが出来る。大きな木々が減り、鳥たちの声が聞こえなくなるかわりに、広い空とたくさんの山が出迎えてくれた。

週末だったせいか、登山客は多かった。ちびっこからおしゃれな山ガール、元気な中高年の方まで、年齢層も様々。でも山ではみんなにこやか。すれ違うたびに「こんにちはー!」と挨拶を交わし、時々は世間話なんかもする。知らない人と挨拶する、なんてことは日常生活ではあまりないけれど、やっぱり挨拶っていいなぁと思う。こうやって道行く人と笑顔で挨拶できたら、街を歩くのもきっともっと楽しいのに。

無事頂上に着くと、そこはもう雲の上だった。まるで飛行機に乗っているみたいに、山だけでなく雲まで下に見える。もちろんとっても涼しくて、快適だった。雄大な自然に囲まれて、疲れていた心がゆるりとほどけていくのを感じた。にこにこしながら登ったら、素晴らしい景色が出迎えてくれた。残念ながら富士山は見えなかったけれども、ここではゆっくり時間が流れている。日常生活を離れ、ふっとリラックスできる、山にはそんな力があるように思う。
 

| comments(0) | - | 23:15 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# とにかく楽しく走ってます。

大体いつも、わたしはもう少し痩せたほうがいいな、と思っている。「走ることが趣味です」なんて言う人は、すらっとした体型の方が多い。でもわたしは違う。ランニング用のシューズを買いに行くと、必ずと言っていいほど店員さんから初心者用のシューズを薦められる。つまり、スポーツ用品店の店員から見ても、走っているようには見えないということだ。

もちろん、走るにはすらっとした体型の方がいいに決まっている。脂肪ばかりの身体で走るには、余計なエネルギーが必要になる。マラソン大会なんかを見ていても、トップランナーは実業団の選手のようにすらりとした体型で、タイムが遅くなるにつれてだんだんと肉付きが良くなってくる。太っているとタイム以外にも弊害がある。ランニングフォームにもよるが、膝や腰に負担がかかるので故障しやすくなる。

痩せたいと言うと、大抵は「そもそも継続的に走っていたら自然と痩せてくるのでは?」と言われる。わたしも走り始めたころはそう思っていたし、実際少しは痩せた。でもランニング歴が長くなり、距離も時間も長く走れるようになってくると、痩せなくなった。運動量が増えているはずなのになぜ・・・と考え、ひとつの結論にたどりついた。

そう、食べ過ぎているのだ。はたと思い返してみれば、最初の頃は少し走ると疲れてしまって、食欲もわかなかった。だが、長く走れるようになってくると身体も慣れてきたのか、走った後も食べられるようになった。食欲がわかないどころか、ごはんがおいしくて仕方がない。「今日は走ったからいいか」とたくさん食べ、「また明日も走ればいいか」とデザートも食べ、気が付いてみたら食事量が格段に増えていた。

これはまずい、と食事量のコントロールを試みるのだが、残念ながら自分に甘いわたしは「ごほうび、ごほうび」などと言って、走った分きっちりと食べる。これでは痩せるはずがない。そのうち、ただ食べてるだけじゃなくて運動もしてるから健康的だよな、なんてわけのわからない言い訳をして、結局最後は食事量をコントロールする、という話はなかったことになる。こんなわけで、わたしはいつまでたってもランナー体型にはなれないのである。

あれ、今回は「夏が来たから本当にダイエットをしようと思う」という話にしようと思っていたのに、なんだかおかしな方向でまとまってしまった。だからいつまでも痩せないんだよなーと思いつつ、今日もたのしく走っておいしいビールを飲んだのでした。
 

| comments(0) | - | 23:32 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 世界一おいしいビール

とにかくひたすら走ってばかりいた頃、一緒に練習していた友人から「今日の練習の後、世界一おいしいビールを飲ませてあげる。」と言われた。その練習は夜にやっていたのだけど、その日はとても暑い日で、日が暮れてもまだもわっと生ぬるい空気が漂っていた。ビールに目がないわたしは気になって仕方がなくて、練習中も何度も友人に「どういうこと?」と尋ねた。しかし友人は「とにかく今日の練習は死ぬ気で頑張ったほうがいい」と繰り返すばかりだった。

練習が終わるや否や、友人が「この後、飲みに行こう!」と誘ってきた。世界一おいしいビールとやらも気になるし、行きたいのはやまやまだが、死ぬ気で練習を頑張ったおかげで全身汗だくだった。いくらなんでもこのままお店に行くのはなぁ・・・と迷っていたら、友人はにこやかに「着替えなくても大丈夫、行こう行こう!」と言う。女子ばかり、全部で5人ほど集まったので、みんなでいればまあ気にすることもないか、と行くことにした。

着替えなくても大丈夫、の理由はお店についてからわかった。なんと、友人が案内してくれたお店は立ち飲み屋だったのだ。仕事帰りのサラリーマンがふらっと一杯やっていくような感じのお店で、普段だったら入るのをためらってしまうような雰囲気だった。スーツ姿のおじさまがたばかりの店内に、汗だくのランニングウェアに身を包んだ女子が5人。なんとも異様な光景である。

気になる世界一おいしいビールとやらはどれだろう、とメニューを眺めるわたしの横で、友人は「とりあえずビール5つ!」と注文した。わたしはますますわけがわからなくなった。「まあいいからだまされたと思って飲んでごらん。」と言われ、いつものようにビールを飲んだ。キンキンに冷えたジョッキに入ったキンキンに冷えたビール。乾いた喉にほどよい苦みとほどよい炭酸が流れ込み、疲れた体にしみる。なるほど、確かに世界一おいしいビールだった。「ね、だから言ったでしょ。」と友人が隣で笑っていた。

今年もまた、夏がやってくる!
 

| comments(0) | - | 23:14 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 夕暮れ時、橋の上。

以前、会社勤めをしていた頃は早朝ランをしていた。昼間は仕事だし、夜は残業があったりお付き合いの飲み会があったりするので、走る時間を探したら早朝しかなかったという単純な理由からである。仕事を辞めて自由な時間がとれるようになったら、さぞかしたくさん走るのだろうと思っていたのだけど、そんなことはなかった。ぐうたらなわたしは、時間があればあるほど何もかもを後回しにする。とにかく家にいるのが好きなので、読みかけの小説を読んだり、好きな雑誌を眺めたり、今日は何をしようかなぁなんて考えているうちに日が暮れてしまう。そんなふうなので、「あれ、走ろうと思っていたのに今日も走らなかったわ」なんていうこともしょっちゅうある。

というわけで、最近は車や自転車に乗りたい気持ちをぐっとこらえ、なるべく走って移動することにしている。走り出してしまえば走ってよかったーと思うのだけど、重い腰をあげて走り出すまでが本当に長いので、この方法はなかなかいい。

出かけた時は、暗くなる前に家に着くように気を付けているので、夕暮れ時に走ることが多い。うちのまわりには高い建物がなくて田んぼや畑が多い分、空が広くて、夕焼けは本当にきれいだ。夕日を受けてオレンジやピンクに染まる空。反対側からは夜が深いブルーの空を連れてくる。そんな夕焼けに包まれて走っていると、今日も終わるんだなぁという気持ちになる。こうして毎日、日が昇って日が暮れて、そういう大きな自然の流れの一部にわたしもいるんだなぁとふと思う。今日も1日無事に過ごせました、ありがとうございます、とその大きな流れに感謝したくなる。また明日もいい1日になりますように、と小さく祈りながら、優しくて温かい気持ちになる。

けれどもこんな気持ちで走っているのはほんの一瞬で、どこかから晩御飯のいいにおいがしてくると、さて今日のメニューは何にしよう、いやいやまずはビールだな、と一気に俗世に戻ってくる。なんだかんだ言って、やっぱりわたしはおいしいごはんとビールのために走っているんだなぁと思うと、ちょっぴり情けないような気持ちになって、笑ってしまう。

ビールのおいしい季節が、近づいてきた。

| comments(0) | - | 23:12 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 春が来た。



ついこの間まで凍えそうな日ばかりが続いてる気がしていたのに、今年の春は急にやってきた。春になると、目に映る景色が鮮やかになる。いろいろな種類の桜があちこちで一斉に咲き始める。冬の間は小さくまとまっていたビオラやパンジーも、あっという間に大きくなる。広がったビオラの後ろに背の高いチューリップが咲いているのを見つけたときは、「あら、気づかなかったけどずっとそこにいたのね!」なんて、うきうきと話しかけたくなる。近所の畑はどこもかしこも菜の花だらけ。どこからか、ふわんと花の香りが漂ってきたりして、とってもいい気分。

そんなわけで、春は近所を走っているだけでいい気分になる。でもそのいい気分に加えて得した気分にもなるのが、お花見ランである。走ることのメリットとして、わりと長い距離を移動できること、走った後はビールもごはんもおいしくいただけることが挙げられるが、走ってお花見に行くというのは、このメリットを最大限に活用しているといってもいい。


お花見ランの具体的な流れとしては、次の通り。どこか適当な駅に集合し、走ってお花見の場所まで行く。走っていくのでもちろん渋滞はない。お目当ての場所が混雑していたら、次の候補地まで走って行ってもよい。もちろん、はじめからいくつかのお花見スポットをまわるような計画を立てて、お花見のはしごをしてもいい。最後は屋台が出ている公園のような場所で、おいしくビールとごはんをいただく。その後は、また走って帰ってもいいし、電車に乗って帰ってもいい。

このように、体調や気分に合わせて変更できるところもまたいい。一人でもみんなでも、途中参加するのも公共交通機関でショートカットするのもアレンジは自由自在。応用編としては、日帰り京都旅行もいい。走って移動するなら、大混雑の春の京都でも渋滞を気にせず楽しめる。

車ではこうはいかない。渋滞だってあるし、陽気がいいからと言って車を置いて走って帰るわけにもいかない。帰りも運転があるからビールを飲むわけにもいかないし、運動したわけでもないのにごはんやスイーツをもりもり食べるのも気が引ける。となるとやっぱり・・・お花見ラン、おすすめです。

| comments(0) | - | 23:10 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
# 心、穏やかに。

この話をすると、我ながらちょっと宗教じみているような気がするので、あまり話さないことにしている。だけどこれは紛れもなく、わたしが走る理由のひとつなので、今回はあえて書いてみようと思う。

走ることはわたしにとって、最大のストレス解消法である。走るときはいつも、というわけではないけれど、走っている間に最近あった嫌なことや、いまいち納得のいかないもやもやなんかが頭の中をぐるぐるとまわることがある。

身体が温まるまでは、その嫌な気持ちやもやもやはものすごい勢いで押し寄せてくる。一度はどこかで折り合いをつけて、なんとなく納得したような気になっていたはずなのに、「いや、まだ納得してない!」「あのときは本当に嫌な気持ちだったんだ!」と、当時の自分が主張し始める。まるで頭の奥からドロドロとしたものが噴出してくるみたいに、つらいとか苦しいとか悲しいとかそういうマイナスの気持ちでいっぱいになる。それはもう、ものすごいリアリティをもってやってくるので、涙が溢れそうになることさえある。

そうなるともう、とにかく走り続けるしかない。一歩ずつ、確実に、脚を動かすこと。立ち止まらず、前に進むこと。重苦しい気持ちのまま、逃げるようにスピードを上げる。

すると、突然軽くなる。身も心も、すっと軽くなって前向きな気持ちになれる。つらいとか苦しいとか悲しいとかみんな、だんだんと温まってじわりじわりとかく汗と一緒に振り落としてきたような気分になる。目に映る景色もワントーン明るくなったような気さえする。さっきまであんなにマイナスの気持ちでいっぱいだったはずなのに、いつのまにか気分が良くなってくる。ドロドロは少しずつ削ぎ落とされて、頭の中は前向きで明るい気持ちで満たされてくる。そうしてある程度の距離を走り終わる頃には、晴れ晴れとした気持ちになって「しょうがない、もうちょっと頑張るか。」なんて思ったりする。

つらいとき、悲しいとき、苦しいとき、悩んだとき、大事なのはとにかく先に進むこと。それだけ。走るたびに、こんなにシンプルでわかりやすいことなんだ、と気づかされる。そして、また前を向くためのパワーが少し湧いてくる。

風がつよい。

| comments(0) | - | 23:05 | category: エッセイ:佐々木佳菜子, 愛知 |
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